2008年01月09日
中国の偉大な政治家です!
日本人も皆知ってる人ですね!
毛 沢東(もうたくとう)は、中国の政治家、軍人、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。中国共産党の創立メンバーであり、中華人民共和国の建国の父とされている。死去に至るまで、同国の最高権力者の地位を保った。大躍進政策や文化大革命を引き起こしたことで天文学的な数の死者を出し、国力を低下させたが、その影響力は未だ根強く残っている。「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、市場経済化が進む中国では、現在も国父としての位置付けにある。しかし、文化大革命で失脚した上に迫害された、鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされ、歴史の教科書からも彼を賛美する記述は無くなり、毛沢東の神格化は次第になされなくなった。
文化大革命
こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇?鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし一方、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会を窺っていた。
1965年11月、北京市副市長でもあった呉晗の『海瑞罷官』(かいずいひかん)を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報』(ぶんわいほう)に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場におもむき、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
これらの事により、江青や林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られ呼称された)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「プロレタリア文化大革命」への流れが決定付けられた。
文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平などの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け1968年毛沢東は学生達の農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
(以上、ウィキペディアより引用)
中国ではそりゃもう英雄なんでしょうね!
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